晴れて11月1日にグランドオープンを迎えることになりました舩橋です。
少し自己紹介をしたいと思います。
1973年9月、
警察官だった父、デパガだった母←古い言い方、
3つ下の弟の4人家族の長女として群馬県前橋市に生まれました。
前橋では幼稚園の年少さんまで過ごします。
↑白黒写真ではありませんよ。セピア色に加工したものです。
その時はバス登園。
なぜがバスの中で私の手をつねってくる男の子がいて、それがとても嫌っだけれど母にも先生にも言えず、
ただ辛抱して幼稚園に通ったのを覚えています。
そこで4年住み警察官の宿命、転勤があり、その後大泉町へ引っ越し。
年中さんから小学校5年生まで過ごします。
その時の習い事は、そろばん、習字←真面目にやってない、スイミング。
そろばんは楽しかったけれど、当時はまだメジャーではなかったスイミングへ母に無理やり入れられ、
太田市まで通っていました。
どうやら近所の知り合いのうちに勧められたらしい。
↑これもセピア色ね。
その家の子が喘息だったようで、スイミングに通うようになったら良くなったとか…
でも私も弟も喘息ではないのよね。
私は肥満でしたがね(笑)
知り合いもいなかったので、すごーく嫌だった。
とっても辞めたかったけど、いやいやながら6年生まで続けました。
でも今思うと習っていなかったらきっと泳げていませんね。
だから泳ぐのは得意です!水着はNG←誰も見たくないか(泣)
そのころから太ってはいたけど、イジメにあうこともなく、元気に過ごしました。
そしてここでも宿命の転勤で、6年生で太田市へ引っ越し。
卒業まじかで転校ってのも新しい学校で何の思い入れも無いから、
卒業式で泣かないのかと思いきやしっかり号泣。
そこではたった一年の新しい小学校での生活でしたが、
大泉町の環境より何となく周りが大人びていて
それなりに楽しかったです。
そして、3校が集まりマンモス校となっていた中学校へ入学。
私の年は、第何次かのベビーブームで、クラスが11組もありました。
今では考えられないですね。
そこでバレー部に入部。ここでもしっかり肥満でしたが、
動けるデブでしたので部活は楽しくやっていました。
その時のマイブームは光GENJI。
狂ったように好きでした。コンサートにも行ったし、原宿にも色々買いに行ったな~
当時は、社会人になったら絶対東京に住む!!と意気込んでいました。
それから隣町の高校へ進学。
特に将来やりたいことも無かったため普通科へ。
卒業したら普通にオフィスで働きお茶くみなんてやるんだろうな~
なんて思っていました。
高校生活は、ぜーんぜん楽しくなかったです。
普通に自転車で通い、そのままストレートに帰宅。
たまーにお友達と帰りにご飯食べ帰るくらいの毎日。
みんな部活やらマネージャーやらをやっていたのでね。
パン屋さんでバイトをしていましたが、私があまりにも早く帰ってくるので父に、
寄り道とかしてこないんか?と変な心配をされました。
周りのみんなが進学のために小論文とかを一生懸命やっていて、私は将来どうしよう…と悩んでいる時に
父がとある医療事務の専門学校のパンフレットを持ってきました。
そんなとこ行きっこないじゃん! 親の言いなりになんてならない!と反抗していたくせに、
最初は見向きもしませんでしたが、
いよいよ進路を決めなくてはいけないという時にそのパンフレット開きました。
そしてそこの専門学校へと進学するのです。
(入学試験が簡単だったのがある種決め手だったのは内緒)
専門学校は一年制で、車で通ったり電車で通ったりしていました。
点数の計算をしたり、保険の種類の覚えたりと楽しかったのですが、
ここで初めて海外を経験するのです。
修学旅行がグアムだったのですが、初めてのパスポートに初めての飛行機。
あっという間の二泊?三泊?でした。
この頃の友達は、やはり高校とは違い、色々新鮮でした。
ただ男の話題が出てくるたんびに卑屈になっていたのを覚えています。
母親が22歳で結婚したので、私もその頃に結婚するのかな~
今19歳でしょ~。 あれ?私彼氏居たことないじゃん。
結婚するのに最低1年は付き合わないとな。
となると、今居ないとダメじゃんね?
周りを見ればみんな身体の厚みがない…つまり細い。
あれあれ?私太ってるじゃんね?
そういえば、中学も高校も専門学校もぜーーーんぶ制服はサイズが無くて特注品。
やばーーーーー!! 私結婚できない!!
ここで人生初めて「ダイエットの神」が降りてくるのです!
続く…..